江藤パーソナルは、若き日を歌舞伎町で過ごした江藤カズオの、なんの役にも立ちそうもない個人的ホームページです!

日本列島どこへ行く!

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 夜が冷たい心が寒い…昔の唄じゃないけれど、どこかヘンだぞ大和民族。自由だ差別だ人権だのと、身のほど知らずがワイワイガヤガヤ。右も左も後ろも前も、偽善、偽装、虚偽、疑惑の横行跋扈。加えて、事件、天災、不況、政治不信と、とどまることなき暗澹の日々。どこへ行くのかニッポン列島…。
 だがしかし、時代の流れはもうどうにも止まらない。まして一人で吠えてはみても、バカやアホウの喧騒にかき消されていくばかり。これだけイカレた世の中になんの期待も持てずとも、それでもめげずに悪い癖、ちっぽけな正義感を大上段に振りかざし、乱れし世相に八つ当たり。ひたすら江藤は吠えまくる。
 嗚呼、世の善良なる愚衆に幸あれと…。
Vol.001_プロローグ

人生も死なんてものを考えるようになり、やがて下り坂をゆったりと歩むようになってくると、その分、世の中が透けて見えてくるから楽しいというかおもしろい。とくに私のようにガキのころから大人の社会で揉まれに揉まれ、世の清濁をいやというほど併せ呑んできた者には、なおさらその感が強い。おのれのことではときおり失態を演ずるものの、人さまのこととなると、見えること、見えること! 生まれ持ってのお節介だから、なんでもかんでもしゃしゃり出て我流解決を試みる。むろんすべて正解とはいかないまでも、ま、中(あた)らずといえども遠からずという自信はある。

と、偉そうなことをいってはみたものの、中卒の成り上がりで浅学非才の身。学問的かつ系統立った論を展開をすることはかなわない。いまもって、数学のルートなにがしなんてものは理解すらできないていたらくで、すべて経験と持ち前のクソ度胸で押しまくるのみである。だから、本エッセイの内容そのものは感情むき出し。おのれの感性に障る論や現象を、ひたすら独断と偏見であげつらうのみだ。

だが一応、私も物書きのはしくれ。自信をもって世に公開した以上、その中身については責を負う。ただし唯一、匿名の反論や質疑については、一切、無視・黙殺とする。身分を明かしたうえでの意見や質疑にはよろこんで応じる。実名で物を書くというのは自らをさらけ出す勇気を要する。匿名でしか並べたてられない無責任な説は無用なゴミにほかならない。文章は血が通ってはじめてその妙をかもしだす。

インターネット
いましも、インターネット上を駆けめぐる無数の誹謗・中傷をふくんだ匿名文書は、すべてゴミである。そう、無機質で、無価値で、無意味で、無節操な駄文の山。つまり、たわごとである。身分を明かす勇気も持ち合わせぬ輩そのものを、卑劣な人間と切り捨てることを私ははばからない。人格のない文章にはなんの趣も見いだせないからだ。

それにしても世の中は広い。いろいろな考えの持ち主が様々な意見を述べ、活動をしている。大多数は善人で並の人々であろうが、真の悪人や特異な人種も山ほど存在する。彼らは事を引き起こしては世人の耳目に触れて話題になる。故なき殺傷事件、振り込め詐欺、食品偽装、事実隠蔽、情報捏造、贈収賄などなど、病んだ事件には事欠かない。

加えて、あらゆる出来事が節操なきマスコミの予断や推測によってねじ曲げられ増幅され、社会の隅々にまで垂れ流される。事の善し悪しも検証されず、視聴者、読者に迎合するばかりのトンデモ番組やエセ科学、偽記事の洪水となる。まさに少数(悪)が多数(善)を凌駕し、世の中、次第しだいにいびつになっていく。いまや性善説などというものは、遠い過去の遺物に成り下がったと思える。

そこで問われるのが、物を見る目である。目の前の情報や事象のどこを見るのか。それがまた難しくもあり、奥深いところでもある。ま、結論をいえば「根っこ」を見るということになろうか。根っことは「基本」という意味だ。見えやすい物事の表層だけを見ていると判断を誤る。といって、一朝一夕にものを見る目が養われるわけではもちろんない。それなりの経験、学習、努力が不可欠だ。

その第一歩は、まず「疑う」のである。信じることはたやすい。人の言うこと成すことを鵜呑みにすればいいのだから、なんの思考も要しない。こんな楽なことはない。物事に対しての基礎知識を持たない人は考えることすらせずになんでも信じてしまい、結果、人生を大きくしくじる。

「テレビで観た」、「ネットで検索した」、「有名人の誰々さんが述べていた」、「本に載っていた」といったことを平気でいう人が掃いて捨てるほどいる。が、これらはたんなる受け売り、孫引きであり、自分の説ではまったくない。その中身が正しいかどうかを検証・確認せずに言葉にしているだけで、あとから間違いであることなどがわかったときには、そのまま自らをおとしめることにつながる。

反面、疑うことができる人は、根っこを見る目があるということになる。これを「科学的思考」と置き換えてもいい。科学は「疑う」ところから発展してきた。疑問が生じたり、自分の考えと異なる説に対したときなどにきちんと裏をとる(検証する)ことは、現代人の常識といえる。実際、いままでの自分の知識が間違っていたり思い過ごしであったりする場合が多々あるからだ。面倒であっても検証さえしておけば、反論や逆襲をされて恥をかくこともない。

このように、疑うということ自体にエネルギーを要するのであるが、それを身につけることで物事を見る景色が変わってくる。人間的な魅力もグンと増す。私自身も、自信をもって本エッセイを記すために、まず疑い、取材し,検証するという手続きを経ている。

元来、私という男は、ちっぽけな正義感を振りかざしすぎるという悪い癖を有する。自分の利のために平然と虚を述べたり、非科学的なまやかし商法で消費者を惑わす輩などには我慢がならず、歯に衣着せることなく直球勝負を挑んでしまう。むろん、その球を投じる以上、手抜かりなきように最低限の検証は常にしている。

本エッセイの主たる目的は、世にはびこるさまざまな悪しき事象について、無遠慮に、あからさまに私なりの論を展開していくことにあるが、それが一服の清涼剤となるのか、あるいは凡夫の雑文として読み飛ばされるのか。それは読者諸氏の感性にゆだねることとしよう。 (了)

Vol.002_日本語の乱れは「間違い」なのか「変化」なのか?

古くから物議をかもしつづけている日本語の誤用や乱れに対する批判の流れが、近年は柔軟な対応を認める方向に傾いているようだ。これは、著名な言語学者も述べているように「変化しない言語は死んだ言語である」や「誤用でも多くの人が使えば市民権を得る」といった観点からもうかがえる。実際、年配者や識者による「最近の若者言葉は…」といった指摘に対し、当の本人たちはあっけらかんと「それがなんなの」と涼しい顔をしている。

たしかに、言語そのものは時代とともに変化するものであること国語イメージは、言霊の国・日本の歴史も証明しているし、流行語大賞などという受け狙いのイベントの存在などからも、多くの人が体感してきているところだ。また、言葉や発音は川が低きに流れるように、楽な方へ、そして簡潔な方向へと変化していくのが自然の理であり、変化することそのものを嘆くことは、的を射ていないということもできよう。

そうしてみると、”厳守”すべき正しい日本語などというものは、長い歴史をひもといてみてもどこにも存在しないという事実を認めざるをえなくなる。むろん、言語学者はそのことを承知していて、彼らは保守的な伝統主義者、そして乱れ容認論者のどちらにも与しない立場を取ろうとするのが当然である。

本来、言語学は言語現象をあるがままに観察し、「なぜ」、「どのように」そうした現象が起こるのかを説明することが主眼であり、いわば、正しいか正しくないかを考慮する必要のない学問なのだ。当然、そこには「言語は常に変化する」という大前提が横たわっている。

一方、国家的、あるいは規範的というか、「日本語とはこうあるべき」という立場がある。学校で教える教科書や市販の文法書、参考書、辞書などがそれに当たり、そこには正しいか正しくないかという厳然たる規範が存在する。だから、国語のテストで教科書に沿わない答えは誤りとされて×となるわけである。

実際、乱れの典型としてよく槍玉に挙げられる「食べられる」→「食べれる」といった、いわゆる「ら抜き言葉」などは、すでに市民権を得たかのように、若者の間では違和感なく飛び交っている。また、言葉の用法でも、後ろに否定語を伴うのが正しいとされている「全然~ない」を「全然、大丈夫」と肯定的に用い、隠語から広まった危険を意味する「ヤバイ」が、「これ、うますぎてヤバイよ」と非危険的に使われるなど、若者の間にはすでに著しい用法の変化が見られる。

このところ、私がとくに嫌な感じを受けるのが「すごい」の誤用だ。多くの人が「すごい」と「すごく」の使い分けができず、「すごく楽しい」を「すごい楽しい」、「すごく早い」を「すごい早い」などと平然といってのける。これは、「すごい」が終止形あるいは連体形で、「すごい人」や「すごい家」のように名詞(体言)を修飾するのに対し、「すごく」は連用形で、「楽しい」「早い」といった形容詞や動詞である用言を修飾するという文法を、みごとに踏み外している例である。テレビなどでも、タレントやインタビューをされた人たちの多くが「すごく」というべきところを「すごい」という。NHKなどは「すごく」と訂正のうえテロップを流していたが、最近はあまりの使用頻度にお手上げになったのか、しゃべるままを流していることが多い。

さらに、言葉本来のイントネーションを無視してしゃべる「アクセントの平板化」も常態化しつつある。「彼氏」というとき、通常は「カ」にアクセントをつけて「レシ」を平坦に発音するが、若者の多くは抑揚をつけずに「カレシ」と、どこか尻上がりのようにも聞こえる平板的な言い方をしてはばからない。

こうした事象を嘆かわしいと指摘するのは、いうまでもなく年配者が圧倒的である。人類の永遠のテーマともいえる「いまどきの若者は~」の言語版にほかならないが、前述の通り、多くの大人が言葉は変化していくものであることを頭では理解しつつ、それでもどこか釈然としないのは、言葉そのものの宿命として、自分自身が学習したり慣れ親しんだりしてきた形以外を認めたがらない性格を有するところにある。

つまり、強く自己の感覚と結びついている言葉の世界が絶対であって、異なる用法にぶつかるとたちまち拒否反応が顔をのぞかせ、非難したり排除したりしてしまう。まさに、若者特有の価値観を容認できない大人の生理的な性(さが)のようなもので、これはもう心の領域の問題で仕方のないことといえよう。

むろん、私個人も多くの年配者同様、いまどきの若者言葉を苦々しい思いで聞き、それも強く感じてしまうひとりではあるが、本能的、感覚的な意味合いにおいては、同年他者とはその趣がいくぶん異なる。それは、私がはしなくも日本語を多少なりとも学び、物書きの末席を汚している身であることと、盛り場などでの遊びや取材を通して、常に若者たちの生態に触れる環境に身を置いていることと無関係ではない。

長年、物事を自分に置き換えてみたり、自分なりに検証してみたりといった習い性が身に付いてしまっている私としては、頑迷な伝統主義者にも心優しき乱れ容認論者にも与したくない。あえていえば感覚主義、あるいは実践主義者とでもなろうか。経験と実態の中から時代に即した答を実践的、感覚的に導きだせたらそれでよしという姿勢をつらぬいている。それであっても、私の目前で耳障りなまちがい言語を発する彼、彼女たちには、それは直した方がいいと、文法的な解釈を加えつつストレートに指摘することは忘れない。

さて、言語における学問的な定義その他については専門家にゆだねるとして、一般論としての「正しい日本語」とは、相手に不快感や誤解を与えないということが基本条件、絶対条件であると私は考える。コミュケーションの最大の武器である言語を、快適に、明快に使いこなせればこれほどすばらしいことはない。

また、正用の日本語を使うことで人間性が高まり、人間関係をも円滑にするであろうことは疑いの余地がない。就職時に面接官の前で正しい敬語や言葉遣いができなければ、悪い印象や誤解を与えてしまうだろうし、年長者に流行りの若者言葉や、ぞんざいあるいは対等な言葉で接すれば嫌われるだけだろう。

かの悪名高いファミレスやコンビニ言葉に代表される「ドリンクバーはよろしかったでしょうか」や「10,000円からお預かりいたします」といった明らかにまちがった鼻につく言葉を発していれば、自分の価値は落ちていくばかりだ。つまり、どんな日本語を使おうが使うまいが、それは本人の勝手、カラスの勝手なのだが、そのすべての責は本人に帰するということである。

語彙(ごい=ボキャブラリー)が乏しければ豊かな表現ができないのは当たり前で、結果として心貧しき人、知に劣る人といった烙印を押されることにつながっていく。乱れを感じさせる言語遣いばかりで、本来の日本語を使いこなせないとしたら、これは悲しい光景といわざるをえない。人生、どこから見ても、愚かと思われるよりも賢いと評価される方がいいに決まっている。

言葉の変化が定着し、人々の共通認識を得るまでには、それこそ気の遠くなるような歳月を要する。したがって、それまでの間は「乱れ」として俎上にのせられるのもやむをえない。現代の日本語にしても、平安、いやそれ以前の昔から語り継がれてきた言葉の変化の結果なのだから……。

けれども、そうした事象とは関わりなく「自分のための言語」というものをしっかりと身に付ければ、それらはことごとく自分にプラスとなってもどってくるということを、私は経験的に知っている。どんなふうに日本語を使おうと自由ではあるが、言語は文化遺産でもあり体を現わす道具でもある。すべては自分のためにという原点を忘れてはならない。

現代用語を憂える年配者諸氏もかつての若き日、流行り言葉を気にもとめずに口にしていた時期があったはずだ。もちろん私もその一人であった。だが、年齢と経験を重ねるうち、自然に自分なりの言語遣いに至ったことを顧みて、明らかな誤用に出会った際にはそれを指摘しつつも「よき言葉遣いは自分のため」ということを具体的に教えてやるという立場で接することで、多少ではあるが矛を収める気分にはなれる。(了)

Vol.003_間違い日本語を垂れ流しつづける鉄道各社の愚鈍

前回、日本語の乱れについて私は、「変化の非難派」と「変化の容認派」の立場があるなかにあって、あえていえば感覚主義、あるいは実践主義者であることを述べた。むろん、これは私が変化を非難する側にいながらも、時代の流れによって言葉は変化することを、自然の摂理として現実的にとらえての論である。ただし、上記の「変化に柔軟」は「変化を容認」ではまったくない。場合によってはしかたがないとする一方、とても容認できない変化もあるということだ。

時代の流れだからと、物わかりのいい好々爺よろしくなんでも受け入れてしまっては、直球勝負をウリにする私の論としては毒気に欠ける。また、正しい(と思える)日本語の在り方を多少なりとも学んできた物書きのはしくれとして、やはりいまどきの違和感の多い日本語に出会うと、自然に脳が反応してイライラ感を増幅させることもしばしばである。

そこで、言語は変化していくものと自らにいい聞かせつつも、おかしな日本語はきちんと正すべきという私なりの信念もあって、あらためて思いつくままにそれらを検証してみようと思う。ま、なにはともあれ、ヘンな日本語をあげつらう事例には事欠かない時代というわけで、しばし重箱の隅をつつく作業をしてみることにする。

さて、いまもっとも不愉快かつ耳障りな日本語用法のひとつを、サンプル画像ここで槍玉に挙げたい。それは、JRをはじめとする鉄道各社の、接近放送と呼ばれる構内アナウンスである。あの、乗車時に誰もが耳にする「×番線に××方面行きの電車がまいります。危ないですから黄色い線までお下がりください」というアナウンス。これを聞いて”イカレている”と感じない人は、日本語に鈍感といわざるをえない。

この接近放送のどこがイカレているかといえば、それはもちろん「危ないですから」という言い回しである。まるで、幼児への問いかけのような稚拙丸出しの日本語を、公共機関たる鉄道会社が臆面もなく、日々、延々と垂れ流しつづけているのだ。誰か心ある社員のひとりかふたりが「恥ずかしくありませんか」と会社に異を唱えてもよさそうなものだが、まさにナンセンスの極みといえる。

私にいわせれば、これはたんに「危険ですから」か「安全のため」と言い換えるだけで事は済む。あるいは、電車の接近が危険であることを当然とみなして「危ないですから」を省いても意は十分に伝わる。たった一語を工夫するだけで、たちまち違和感や不快感は消え去ってしまう。地下鉄の駅などにはご丁寧に「危ないですから~」と大きく書かれた看板が掲げられていたりもして、目障りきわまりまい。電車の到着にともなって頻繁に発せられるアナウンスだからこそ、シンプルでこなれた言葉づかいをするべきではないか。

ひるがえって、なぜこうしたおかしな日本語が公共の場で堂々とまかり通ってしまうかを考察してみると、現代日本語の欠陥として、形容詞と組み合わされる「です・ます体」の丁寧語が、文法的(活用)に適合しない不便さというものが存在していることがわかる。

本来、「~い」といった言い切りの形で終わるのが形容詞の終止形なのだが、いくつかの形容詞を、丁寧さを表わすための「です」と組み合わせてみる。

「美しい」→「美しいです」
「おいしい」→「おいしいです」
「楽しい」→「楽しいです」
「赤い」→「赤いです」

これら丁寧語にどこか幼児言葉のようなぎこちなさ、稚拙さを感じてしまうのは、まぎれもなく「形容詞+丁寧語」の、日本語における欠陥部分なのだ。文法的には「美しゅうございます」「おいしゅうございます」などが正しい。「危ないです」も「危のうございます」となるのだが、現代人にはバカ丁寧にすぎるし、また、古めかしさを感じてしまって使いにくい。

そこで、こうした形容詞の欠陥を補う観点から、昭和27年、国語審議会が「平明、簡素な敬語にしよう」という方針のもと、文法的には正しくはないがやむをえず「形容詞+です」も”認めてもいい”という結論に至った経緯がある。ま、子供が言葉として口にするのはともかく、いい大人が頻繁に使ったり文章にしたりすることについては、やはり稚拙さやぎこちなさを覚えてしまう。

一方、「形容詞+です」を正しい形で使うのならば「美しい空です」「おいしい料理です」のように、形容詞の後ろに形容する語をつければ違和感がなくなる。しかし「形容詞+です」のすべてを置き換えるのは現実的とはいえない。けれども、そうしたことを常に意識して日本語を用いることも、自らの言語を磨くことにつながるのではないか。

また「~です」の丁寧語は、文法的には「~だ」「~である」に置き換えられなくてはならないとされる。たとえば「美しい空です」という語句は、「美しい空だ・美しい空である」と置き換えることができる。これにより、文法的に正しい使い方ということがよくわかる。しかし「美しいです」を「美しいだ・美しいである」、そして「危ないです」を「危ないだ・危ないである」という人は皆無だろう。したがって、駅のアナウンスも「危ないです」ではなく「危険だ・危険である」と置き換えられる「危険です」を用いることが真に正しい用法ということになる。

言語が時代とともに変化していく生き物のようなものであるとしてもなお、「美しいです」→「美しいですから」。「おいしいです」→「おいしいですから」。「楽しいです」→「楽しいですから」はおかしいし、言葉として破綻しているように思えてならない。どこの誰が「美しいですから見たいです」なんていうか。「おいしいですから食べたいですか?」といったら、大抵の人は、こいつ、バカじゃなかろうかと感じるだろう。もちろん「危ないです」→「危ないですから」も同様である。言葉づかいひとつで人としての真価が問われることが世の中には多々あることを肝に銘じ、意識して言葉を選んで用いるのが自分のためといえよう。

重ねて述べるが、接近放送の「危ないですから」は即刻「危険ですから」か「安全のため」に替えるか、あるいは「危ないですから」の文言を削除しなければならない。文法もさることながら、言語というものは感覚によるところが大きく、いかに心に響くかが重要である。そういった観点からも「危ないですから」が万人に心地よく響く用法とはいい難い。用い方によって人に不快感や違和感を与えることは、日本語そのものの価値をおとしめることにもなる。

毎日毎日、平然と、そして飽きるほど「危ないですから」というおかしな日本語を垂れ流し続けている鉄道会社を、デリカシーのない愚鈍なる集団と考えてしまうのは私だけではないであろう。乗客からお金をもらいながら、さらなる不愉快を強いる鉄道会社に一考を促すものである。

といっているうちに、最近はホームからの転落防止のため、ホームと電車の間の仕切り(ホームドア)が着々と設置されつつある。まさにホーム上の乗客と走行時の電車との接触のおそれがない最善の安全装置である。このホームドアの施設により、上述の不快アナウンスも不必要になると心ひそかに喜んでいたのであるが、な、なんと、相も変わらず「危ないですから」を流し続けているではないか。危険を除去するためにホームドアを設置したというのに、なんという大馬鹿、無神経、愚鈍! アナウンスをするのであれば「ドアの前を広く空けてお待ちください」とでも変えるべきところだ。もはや、鉄道各社の面々の頭の中身そのものが「危ないですから」と断言するしかない。嗚呼、我らが美しき日本語…お寒いかぎりである。 (了)

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