わが「お洒落なシャレダス」も、なかにちょくちょくダジャレをはさんではいるものの、書かれた中身はすべてマジ。江藤の科学的思考と経験のタマモノなのであーる。人生、雑学が役立つことも多々ある。クスクス笑いながら、どうでもいい知識を身につけるのも善き時間つぶしというわけで、江藤のオリジナル連発ダジャレ劇場の、はじまり、はじまりーッ!
私は柿が好きだ。あの、みずみずしい独特の甘さがなんともいえない。先日も、新宿のあるクラブで、よそのテーブルに出されていたフルーツに柿が添えられているのを見て「おーい。こっちにも柿だけでいいからくれよ」と、思わずボーイに声をかけてしまった。
ほどなくして、大きな皿に切って盛られた柿がきた。それを手づかみでつぎつぎと口の中にホッポリ込む私を見て、隣りの席のオッさんが「隣りの客はよく柿食う客だ」なんて早口ことばの練習をした……かどうかは知らないが、横にいるホステスがあきれ顔でいった。
「そんなに食べるとオネショするわよ」
私はすかさず、
「でもさ、漢方では柿は夜尿症の治療薬として使われているんだぜ。柿に含まれているタンニンという成分にその効果があるんだ。だから、オネショの元とタンニンの両方が胃袋の中でまざってイッテコイになるわけだから、いくら食べても大丈夫さ」
と、わけのわからぬウンチクをシタリ顔でかたむけたあと、すくっと立ちあがって股間を押さえ、「ね、トイレどこ?」 と、やったらウケた、ウケた。
そこで、さらに調子に乗って、
「教えてくれたのは中学のタンニンの先生で、これをつまり、カキ講習という」
てな感じで、ダシャレ連発で一人はしゃいでいた。
で、帰りがけ、会計伝票を見ると、なんと、柿が「フルーツ」なんて書かれていて、飲食料金、しめて3万8千円也! ふだん2万円程度の店でである。一瞬、ムッときたが、ホステスたちに柿大好き人間を披瀝してしまった手前、ヤボな態度もできず「やっぱり柿はフルーツの王様なんだ」と自分にいい聞かせ、シブシブ(柿は甘かった)支払いをすませた。
さて、柿といってもいろいろある。
まず、青い柿だ。当然、渋柿だが、これはイタダケない。つまり、青臭くて食えない渋谷にたむろするガキども。これが青ガキ、渋ガキである。渋ガキのほうは、1980年代にはシブカジ(渋谷のカジュアルだとさ)なんて呼ばれてイキガっていたが、頭にあるのはギャルの下半身を追いまわすことだけの、しょせん親のスネかじりのノーテンキ野郎ばかりだった。
そういえば、これも昭和の昔、ジャニーズ系の「シブがき隊」という売れっ子アイドルグループがあった。ま、青ガキも渋ガキも日がたてばまろやかな甘みが出てくるってことで、シブガキ隊にあやかって、今度は「アマがき隊」というグループでも結成してみたら売れる……わけないか。
吊し柿は、干し柿ともいわれ、昔はよく農家の軒下などにワラでくくられて吊るされていたものだ。人間のほうを吊したり干したりするのは村八分といういじめだが、見た目が悪いという理由だけで総スカンにされるいじめられっ子の総称がこの吊しガキ、干しガキである。登校拒否をはじめ、自殺にまで追い込まれるといった陰惨ないじめ事件はいまだとどまるところを知らない。まさにいじめは永遠のテーマということだが、政府や教育委員会など関係者が善き結果を出せなかったら国民全体で吊し上げるしかない。
また、柿にもスイカやブドウに代表されるような種なしがある。でも、食べてみたら実際は種だらけだったということもなきにしもあらず。このエセ種なしガキ、いたって始末が悪い。抜き身でイタシたいばっかりに、性知識に乏しいプッツンギャルなどに「種なしだ」と吹聴してはカメハメハしてそのまま中出し。当然、命中もする。
ある日、やられちまったプッツンがやってきて不安げな面持ちでいう。
「今月、生理こないんだけど……」
「おかしいな。おれ、種なしなんだぜ。おまえ、ほかに心当たりないのか?」
やっつけたほうはスットボケつつ、疑うかのような目を向けて猿芝居の責任転嫁。そして、オナカがふくれてくるころにはプイとどこかに姿をくらましてしまう。
さあ、シビレッちゃうのはほかに心当たりなどまったくないプッツンのほう。なにせガキの分際でエセ種なしガキのガキなんぞ産むわけにいないから、トドのつまりは母親あたりに泣きついて掻爬(そうは=中絶)となる。ほんと、ソウハ問屋が卸さない。
うまい柿といえば、やはり熟柿(じゅくし)だろう。やわらかくて、頬ばったとたんに舌の上でトロけるあの風味は絶佳だ。だが、熟しすぎたヤツはベタついて食いにくい。
これは、ジュクガキと呼ばれる新宿周辺に出没するガキたちのことで、とにかくマセている。オナゴをひっかけるにしてもギャルなどには目もくれず、もっぱら、クラブとか風俗産業で働く熟女タイプをコマすのである。一見、当たりがやわらかで、ベタベタと女に寄りついたりしているうちにチャッカリとヒモにおさまっていたりする。けれども中味が軟弱で甘っちょろいから、最後には女に踏みつぶされてペッチャンコになってしまうのもけっこういて、ヒモ稼業、甘くはない。
煮ても焼いても食えないのが、悪くなって腐りかけた悪柿、そう、文字通りの「ワルガキ」だ。食うどころか悪臭フンプンの鼻ツマミである。じつは、かくいう私の少年時代がこれであった。世間さまに、悪ガキ、クソガキと疎んじられながらも、いけ、いけ、ドンドンの音頭取り。悪ガキ仲間と白昼堂々ヨソさまの庭に忍び込み、柿の木によじ登ってもぎたての柿をイタダクなんてのはお手のもの。その柿が全部渋柿で、頭にきて空に向けて放り投げる。これをカキフライ……なんて誰もいわない。
たまたま柿ドロボーを大人に見とがめられたりしても平然といいわけである。
「この家、ジイさんとバアさんだけだから食べきれないんだって。年寄りがあんまり柿なんか食べるとオナカこわしたりするからね。ま、これは一種の人助けさ」
大人、怒鳴る。
「ガキのくせにノウガキいうんじゃねえ!」
悪ガキ、さっさと逃げる。
そのあとみんなで河原の土手っぷちに寝転び、盗んだ柿に舌つづみを打ちながら、
「学校の裏の家にうまそうな梨があるんだ。明日、かすめに行こうぜ」
今度はナシ泥棒と、まるで反省ナシのおしゃべりに花が咲く。
爾来、幾星霜──。
悪ガキだったころを振り返ってみると「朱に交われば赤くなる」ということわざは、柿の朱と赤の色から派生したのではないかと、つい思えてしまうからおかしい。そして、私もどうやら芯までは腐っていなかったらしく、いまではずいぶん角も取れて丸くなり、こうして昔を述懐したりしている。
え? 柿だから丸くなるのがあたりまえだってか‥‥。ハイ、ハイ。 (了)
アメダスといえは、天気予報でおなじみの用語だが、昭和49年にはじめて我々の前に登場したときには、てっきり「雨です=雨だす」のシャレと早トチリをし、気象庁もダサいゴロ合わせをしたものだと、しばらくはそう思い込んでいた。
ところが、アメダスは英語の〈地域気象観測システム〉という意味の〈Automated Meteorological Date Acquisition System〉の頭文字をならべた、AMeDASというリッパな通称であることをあとで知り、英語も使いかたでけっこうシャレっぽくなるもんだと、自分のそそっかしさを棚にあげてうなずいてしまった。
この伝でいくと、
Brain damage(脳障害)
Oldman(老人の)
Care(看護の)
Date(データを)
Archives(記録する)
System(システム)
はボケダス(BOCDAS)となり、認知症老人の改善治療にたいへん役立ち……ません。
もっとも、当エッセイの表題『シャレダス』は、アメダスのたんなるシャレだす。
さて、天気予報といえばおなじみの気象注意報、これは、気象の変化によってなんらかの災害が予想される場合に出されるものだ。発表基準は地域や気象状況によって異なり、地方気象台が自地域をいくつかに細分して基準値をもとに発表している。
ではここでアメダスと並んで、シャレダス特製のコワーい注意報をいくつか発表しよう。
私はまったく興味がないが、サーフィンの愛好者はいまも多いと聞く。凝ったサーファーたちはハワイなど常夏の国に出かけ、季節を問わず波乗りに興じているようだ。そこで繰り広げられるのが、観光客ずれした外人たちによる日本人ギャルハントである。カタコトの日本語で「オジョサン、キレイネ」なんていわれ、ブルーの瞳で見つめられたりすると、イカレポンチのサーファーギャルあたりはたちまちポーとなってひっかかってしまう。
とくに高波で海に入れない日など、海辺でボケッとしている日本人ギャル目当てに、ニヤけた外人が「ハロー」といいながらすり寄っていく。けっきょくは遊ばれてポイがオチなのだが、これをよく知る日本人の間では「ハロー注意報」といって警戒している。
昔の人がこわいものを順番にならべて〈地震、雷、火事、親父〉といっていたように、古来、雷は火事よりもこわいものであった。親父が最下位というのはちと情けないが、雷親父というのもあって、雷サマの力を借りてこわさを増幅させている。この雷親父のお説教もゴロゴロなんてうちはいいが、いきなり、ピカッ、ドーン!ではたまらない。避雷行動は、とにかく近くの堅牢な建物内に身を寄せることだ。昔、信じられていた樹木の下などに避難するのは絶対にバツ。立木には落雷しやすく、直撃を受ける恐れがある。、
この雷を利用しているのが、エセ新興宗教の教祖である。「信ずるものは救われる」とやさしく説いておいて、あとからドッカーンとばかりにキナくさいご利益を次々とならべたて、善良なる民を宗門にひき入れてしまう。むろん最後はお布施ガッポリというスンポウなのだが、無宗教の人々はこれを〈神なり注意報〉とバカにする。
危険運転の極みである飲酒運転の事故は、法改正による重刑の抑止力が効いてか激減したが、濃霧のときも危険が大きい。ワイパーなんぞなんの役にも立たない。なにせ猛煙を振り払うようなもので、霧、いや、キリがない。頼りは自分の目だけである。 加えて飲酒などしていたらもうアウト。頭の中にまで霧がかかってしまって、あっちフラフラこっちフラフラ。これがほんとのキリキリ舞いである。濃霧に飲酒運転は厳禁。〈飲ーむ注意報〉には気を配ってほしい。
冬山登山やスキーであなどれないのが雪崩(なだれ)だ。気温の上昇や露岩から落ちた小雪塊が引き金となり、突然、発生するから油断はできない。そして、ひとたび雪崩が起きると一瞬のうちに大勢の生命が奪われてしまう。運よく助かった者が仲間の名を呼んでも誰も答えない。名を誰も答えない。〈名だれ注意報〉である
風はほんとうにこわい。古い話ではあるが、昭和53年の春一番は、52メートルという瞬間風速によって東西線の電車車両を鉄橋上で脱線転覆させてしまった。さらに、強風は大雨、雪崩、大火、海・山の被害をももたらすから、なおこわい。強風はまさに〈恐怖注意報〉なのだ。
風の話ついでに、余談……。
「風が吹くと桶屋がもうかる」という江戸時代のよく知られたジョークがある。
「風が吹く。目にゴミが入る。大勢の人が失明する。そこで三味線で身を立てようと、みんな三味線を習う。三味線に使うネコの皮が必要になりネコを殺す。ネコが減ってネズミが増える。そのネズミが桶をかじる。桶の注文が増えて桶屋がもうかる」
強引な論法だが、風と桶とが結びつく意外性がおもしろいといえばおもしろい。
これを現代社会にあてはめてみよう。
「風が吹く。目にゴミが入る。目薬をさす。すぐにゴミがとれる……」
おっと、これでは話が前に進まない。やりなおし!
「風が吹く。目にゴミが入る。大勢の人が失明する。そこでマッサージ師となる。マッサージをしながらサービスで歌をきかせる。客も歌いたくなる。みな、カラオケ屋に行く。カラオケ屋が大繁盛する」
やはり現代でも桶ちがいではあるけれど、風が吹くとカラ「オケ屋」がもうかる。
雨も甘くみるととんでもないことになる。平成25年の和歌山県の集中豪雨のテレビニュースには肝をつぶした。河川の堰が決壊し、あたりの家やインフラ、車などがみるみるうちに濁流に呑まれていく様を映し出すその映像は、水害のおそろしさをまざまざと見せつけてくれたものだ。護岸工事をした国の工事担当者が大雨の脅威を甘く考えていたとしたら、それこそ〈大甘ぇ注意報〉である。
そして極めつきは、あの3.11の東日本大震災による大津波である。人々が予想だにしなかった15メートルを超える巨大な津波が、あっという間に人々を建物を車を船をも呑み込み、世界中を震撼させた。この、未曾有の地獄図のような生々しい現実を前に、ダジャレなど飛ばす所為は慎まなければなるまい。津波注意報が出たら、なにも考えずに高台に向かってとにかく逃げる。これ以外に助かる方策はない。
とにかく、天才、じゃない、天災は忘れたころにやってくる。だからして、無防備でノーテンキな我々に注意をうながしてくれる天気予報や気象注意報はありがたいものなのである。ときにはそれがハズれようとも……。
アメダスさん。いつもご苦労さん。 (了)
オタマジャクシが先か、お玉杓子が先か──
これ、子供のころにさんざん頭をひねった「卵が先か、ニワトリが先か」の問いとはなんの関係もない、オタマジャクシの語源の話である。
ものの本によると、オタマジャクシの呼び名は、汁物などをすくうお玉、つまり杓子(しゃくし)に似ているところからきているという説と、もともと「アタマデッカチ」と呼ばれていたものがしだいに変化してオタマジャクシになったという説とがあり、ともにその形状から出たものであることがみてとれる。そういえば、音楽業界では音符をオタマジャクシになぞらえ、音符がわからないことを「オタマジャクシが読めない」といったりする。
そしてもうひとつ、我々男性が惜しげもなくまきちらしてはばからない精液の中の精子。これもやはりオタマジャクシに擬せられる。ま、音符のほうは違和感もなく、かわいい感じがしないではないが、精子をオタマジャクシなんていわれると、たしかによく似ているだけになにかナマナマしくて、製造元の男としてはちょっとばかり下半身がムズがゆくなる。
このミニオタマジャクシのサイズはといえば、約0.1ミリ。一回の射精による精子の数は数千万から億(どうやって数えたのかな)の単位である。それが女性の体内に射出されると、待ってましたとばかりに子宮に向かって突撃をはじめるわけだが、そこで決死のサバイバルドラマが繰り広げられる。
じつは、精子の寿命は短くはかない。弱アルカリ性である精子は、酸性の女性の体内では数時間で活動性を失ってしまう。ただし、子宮や卵管内は弱アルカリ性なので2~3日は生きていられるが、運よく(悪い場合も多々ある)卵子と出会って受精するのはたったのお1人様分(双子やら5つ子ちゃんなんてこともままあるが)である。
これをナレーションふうに語るとこうなる。
〈精子〉が〈生死〉をかけて〈静止〉することなく子宮めざして進む様子を〈正視〉することを誰も〈制止〉できない……あー、疲れた。
以前、自分の精子を冷凍保存してから戦地におもむくという、アメリカ兵たちのドキュメンタリー番組をテレビで観た。戦場での負傷によって生殖機能を失うことがある。あるいは戦死するかもしれない。あらかじめ精子を冷凍して精子バンクに預けておけば、もしものときには妻への体外受精手術によって子孫は残るというわけだ。まさに人間の種保存本能のありようを如実に物語る番組であった。
戦地に向かうアメリカの兵士が妻にいった。
「おれは《生死をかけて》戦場に行く。万一の場合は、おまえ、解凍した《精子をかけて》子どもを……」
あ、そうか。アメリカは英語なんだね。日本語でシャレてみてもしょうがないな。
ではここで、男性の生殖器系のメカニズムについてふれてみよう。
タマタマである睾丸(こうがん)は精子の製造工場であり、また、男性ホルモンの生成を司るところでもあるが、なにぶん男の急所だから、物がぶつかったりすると痛いの痛くないの。たとえ紅顔(こうがん)の美少年であっても、思わず醜く顔をしかめてヘナヘナとなってしまう。
そういえば 子供のころ、左右のタマタマを入れ替えてみようと何度か試みたことがあった。むろん、そんなアホなことができるはずがなく、最後にはフクロがタンタンタヌキみたいにはれ上がってしまって、しばらくは、ガニタマ、じゃない、ガニマタで歩いていた憶えがある。
二度とタマタマ遊びはごめんだが、言葉でならけっこう遊べる。ちょっと長いけれど早口ことばの練習にもなると思うので、できたら声を出して読んでほしい。
「タマがタマらなく痛くなってタマげたサイタマの男。タマタマ、タマに傷がつき、これをタマにキズという。タマねぎの皮でも貼っておけば努力のタマモノですぐ治るが、こういう男はタマシイを入れ替えタマえといっても聞かずタマったものではない。金もタマらず上タマにももてず、逆タマにも乗れないからタマのような子供にも恵まれないと誰かがのタマわっていた」……やーめたっと。
フクロである陰嚢(いんのう)はタマタマを包んで保護するほか、熱にはからっきし弱い精子を守るための冷却装置でもある。全面シワシワなうえに伸展性があるのも、その分だけ空気に触れる面積を多くして冷やすためで、車のラジエターと思えばいい。重要な役目をになうところなのだから、くれぐれもフクロをフロクなどと読みちがえないように。
犬がよくやるチンチンとは関係ないオチンチン、つまり陰茎(いんけい=ペニス)は、精子の発進用滑走路になっている。飛行機ならば管制塔がすべてのコントロールをしてくれるのだが、生身の人間のほうはなにかとままならぬことが多い。離陸したくないのに、たまらず発進してしまうのが早漏(そうろう)というわけで、男としてはなんともはやオソマツだが、別段、居候に早漏が多いわけではないからご心配なく。
早漏とかけて、なんと解く?」
「一人娘を嫁がせる父親の心境と解く」
「その心は?」
「イクのをとめたいが、とめられない」
この早漏のほかにも、反対になかなか発進できない遅漏(ちろう)や、滑走路がうつむいたきりの陰萎(いんい=インポテンツ)などもあって、その原因の多くは精神的なものに起因している。といって、なにもあせることはないのだ。男たるもの常にチン着でなければならない。
皮かぶりといわれる包茎(ほうけい)も、幼児のポコチンみたいな真性(しんせい)包茎でなければどうってことはない。整形医がすすめる仮性(かせい)包茎の手術は、男の劣等感をあおって行う詐欺商法の一種だ。世の男性の多くは仮性包茎が普通で、清潔にさえしていれば、日常生活やセックスなどにはなんら影響はない。
中には真性のモノを指さし「これは神聖なんだ」とウソぶく強がりがいたり、コトに臨んで彼女に向かって「手を、貸せい」などと命令してる仮性包茎の猛者がいたりもする。六大学野球の「法政」対「慶応」の試合はいうまでもなくホーケー戦だが、両大学の学生に包茎が多いかどうかは、私の知るところではない。
あと、避妊するときには、ケッタクソ悪いがコンドーさんのお世話になる。
ある夫婦の会話。
夫「お隣りの夫婦、避妊はどうしてるのかな」
妻「コンドームみたいよ」
夫「でも、奥さん、妊娠したっていうじゃないか」
妻「今度産む(コンドウム)みたいよ」
シャレるつもりでなくてもシャレになってしまうのが、シャレた夫婦の会話なのだ。
ふたたび、ある夫婦と友人の会話。
友人「このごろ乱視でまいったよ」
夫「男なんだから、卵子じゃなくて精子だろ」
妻「あら、男は男子でしょ」
ま、いいか……。 (了)
あー、いやだ。ほんとうにいやだ。なにがいやだといって、こんないやなものはない。と、いやだを連発しているその「いやだ」はなにかというと、いっこうに衰えをみせない占いブームのことである。右を向いても左を見ても、誰かれかまわず「あんた、何型?」ばっかり。病院の検査じゃあるまいし、血液型がなんであろうとオメーなんかに関係ねえだろってんだ、とイカッたところで相手はトンと意に介さないから、いかんともしがたい。
先日も新宿のあるキャバクラで、前に座ったホステスが「何型?」と聞いてきた。いつもならここでブッキラボーに、知らない(もちろん知っている)と答えて話題を変えてしまうのだが、ちょっとイイ女だったのでちょこっと遊んでやった。
「見りゃわかるだろ。おれは殿方だよ」
「わー、おもしろい。ね、A型でしょう。でもO型って感じもするわね」
「ほんとは最新型さ」
まずはお得意のダシャレではぐらかしたあと、キッパリと占いなんかには興味がないと申し述べた。するとそのホステス、不満そうな口ぶりで、
「でも、血液型ってあたるのよ。リッパな統計学なんだから」ときた。
「そうかい、そうかい。一人でやってな」
私はそのノータリンホステスをまともに相手にする気が失せ、横にいたもう一人のホステスに、占いではなく「からだ、売らない?」という話題に移った……ウ、ウソだよ。
血液型で人間を数種のパターンにわけてなんの意味があるのか。しかも統計学だと。ワリャー、学問をなめとんのか!あんなものただのつくり物、マヤカシだ。昔から「あたるも八卦(はっけ)、あたらぬも八卦」というのが占いの本質なのだ。八卦とは、易者が筮竹(ぜいちく)を使って算木(さんぎ)であらわす科学的根拠のない八種の形状のことで、占いそのものを指す。ただし、大相撲で行司が「ハッケヨイ」というのは、あれは八卦がいいとホメているのではない。「発気よい」つまり、気を発してがんばれというかけ声なのであって、占いのとはなんの関係もないので念のため。
友人の一人が私にいう。
「たかが占い。そうムキになりなさんな」
むろんそのとおりで、占いを信じようが信じまいが本人の勝手、カラスの勝手である。部屋で一人淋しくトランプ占いをするのもけっこう。街角で怪しげな易者に手相をみてもらうのもいい。神社でありがたくおみくじをひくのもいっこうにかまわない。
しかし、しかしである。
「トランプ占いしてあげる」、「ね、何型?」、「ちょっと手相みせて」
どいつもこいつも、かならずこうくる。占いを人に押しつける。興味もない人間にシタリ顔で解説してみせる。そんなバカ丸出しのテアイが多いからついつい胸クソが悪くなってしまう。そしてさらに、占いなんかに振り回され、自覚しないままに大切ななにかを失っていくことの弊害を憂えるのである。
過日、たまたま観ていたテレビのドキュメンタリー番組で、親が子供の結婚相手の相性を占い師に見てもらっている場面があってガクゼンとした。子供たちがうまくやっているのに、そんなことで親が口出しをしたらすべてぶちこわしである。相性の善し悪しなんてのは当人同士のフィーリングの問題であり、つきあってりゃ自然にわかってくる。なぜ、そんなものわざわざ占う必要があンの? オジさん、もう、わかーんない。
もっともその子供が、「占いによると相性が悪いそうよ」と親にいわれて相手からドロンしたとしたらその愛は本物ではなかったという証になり、愛の真偽を知るには都合いいかもしれない。ま、人に相性ウンヌンいわれたら、アサッテの方角を向いて「あい、しょうですか」といっていればいい。
物事にはすべからくオモテとウラがあるのに「ウラない」と嘘をいうこと。つまり、占いは嘘を真実と思わせることなのだ。手品師がのたまわるところの「タネも仕掛けもありません」という、あれである。だが、手品のほうは、見る側がタネも仕掛けもあるのが手品だということを百も承知で楽しんでいるのであり、実害もない。
しかし、なんの裏付けも根拠もないことをまやかしの弁によって真実のごとくスリ替えてしまう占いには、そのまま人の運命を左右してしまうというコワさがある。そこに金がからめばこれはもう詐欺である。ところがオメデタい人々がたくさんいて、自分から金を支払ってまでありがたがるから犯罪にはなりにくい。このように、占い師がウラでやましいことをしているのに気づかず、おみくじで大吉をひいた人を見て「ウラやましい」などといっている輩は、やっぱりノータリンというしかない。
「占いとかけてなんと解く」
「生理kの日にセックスを求められた女と解く」
「その心は?」
「今日(凶)はイヤ」
実際、書店やネットをのぞくと、アノ手コノ手の占いの種類のあることあること…。手相、人相、方位、姓名判断、四柱推命、血液型、誕生日、トランプ、星座、コンピュータなどなど。さらに負けじと、おまじない、超能力、オカルト、心霊現象、UFOなどの怪しげな捏造本やさいとが軒をならべてノータリン人間を招き寄せていて、開いたズボンのチャック、じゃない、開いた口がふさがらない。
そんな、非科学丸出しのトンデモ本を読みあさったり、どこの馬のホネともわからぬ占い師のオッさんやオバはんに自分の運命や将来を占わせて一喜一憂する愚かなる人々。そして、その愚衆からセッセと金を集めているエセ祈祷師たちの群。まさに思考を停止させたまま疑いを持たない無防備な日本人の病める心が生み出した悲劇、というより地獄、いや、喜劇である。
明日がわからないから人生はおもしろい、そして楽しい。明日が未知だからこそ人は夢や希望を創出する。そこに向上、発展、進化がある。それを占いという無意味で非科学的な予断によってアブもハチもとれないものにしてしまう愚。
占いとは、サイエンスが存在しなかった古代人の迷信・妄想・便法であり、そのすべてはマヤカシ、つくり物である。その証拠として、全国の占い師たちに「占いはほんとうにあたるのか」を占わせてみたらすぐにわかる。占いの答なんてはじめから決まっているか、でまかせだからだ。
結果、彼らは口をそろえ、そして、にこやかにこういうはずだ。
「はい。アタる、と出ました」
アンタら、いい? いまにきっと罰がアタるからね。 (了)